学生時代からの贈り物(3)-理工学部の移転と草創期のアンサンブル- (4期・山内 元)

2011/03/08

1967年(昭和42年)、理工学部は完成した現在の大久保キャンパスに移転しました。
私が受験した2月は、キャンパスのあちこちに工事中の囲いがあり、前の明治通りにはトロリーバスが走っていました。都電もまだ銀座通りを走っていたのです。山手線の初乗り料金が10円から20円に値上げされたばかりでした。

理工学部キャンパスの風景

理工学部キャンパスの風景

この年入学した私は、中庭で新入生勧誘をしていたアンサンブルに入部しました。

当時のクラブにはまだ部室がなく、3号館(現在の53号館)の地下のホールに連絡ノートが吊され、そこが集合場所でした。練習は相変わらず近くの幼稚園でした。

部室がないので、練習日にはその集合場所に楽器を置いて授業に出ました。楽器は、授業のない部員が交代で見張り番をしていたのです。

しばらくしてキャンパスも落ち着いてきた頃、アンサンブルは公認サークルとなり、理工サークル協議会に所属して、キャンパス奥にあったテニスコート脇のプレハブに部室を確保することが出来ました(現在の62号館あたり)。 入学して最初の早慶戦で、部員に召集がかかりました。応援のためではなく、球場でのアルバイトをするためです。楽器を購入する資金を捻出するためでした。2期生武田朴さんに引率され、売店と場内売り子(アイスクリーム売り)とに分かれて働きました。

私は場内売り子を選択しました。

場内売り子はどの席にも出入りできます。慶応の応援席に行ったとき、不意に「おい」と、声をかけられました。

見ると、何と、浪人時代に予備校の寮で同室だった男でした。彼は、学生服にアンパン帽の出で立ちでした、慶応大学応援部員になっていたのです。

お互いに「頑張れ」と声を掛け合って別れましたが、びっくりした出来事でした。

早慶戦でのクラブバイトが終わった後、武田さんに誘われて、引き続きプロ野球のナイトゲームでもアイスクリームの場内売りのアルバイトをやりました。その金でスラックスを買い、自分で裾上げをしたことを思い出します。
楽譜係という役職があったことに触れておきます。
今では個人でもプリンターを持っていますが、当時はコピーが大変な作業でした。
トレーシング・ペーパーに各パート譜を作成し、それを原稿として、今となっては懐かしい青焼きコピーで必要部数を焼いて、部員に配布するのが楽譜係の仕事でした。
1号館(現在の51号館)地下にあった図書室の前に置いてあったコピー機の順番を待ちながら、作ったものです。
青焼きは原稿と感光紙を重ねて流す枚様印刷です。コピー機の性能も粗末なもので、原稿がよく巻き込まれて感光液で水浸しになり、反ったりインキが流れたりで、気苦労の絶えない作業でした。

青焼きコピーの譜面

青焼きコピーの譜面

1期は大槻剛さん、2期は岡本之良さんが楽譜係を担当しました。

何でそうなったのかは不明ですが、入部してしばらくすると、私は岡本さんの手伝いをしていました。

楽譜に関わってきた経緯から、第1回演奏会から第5回演奏会までの譜面を、全てではありませんが、少しずつ総譜の形で筆写し直しています。
これは、整理してから、アーカイブに載せる予定です。
ほとんどが部員による編曲なので、これも貴重なアンサンブルの歴史です。
この年の夏合宿は、長野県の野尻湖畔で行われました。
合宿は、朝のラジオ体操で始まり、また、全員でマラソン(?)もやりました。

左、松岡さん(2期部長)右、市川さん(2期)

左、松岡さん(2期部長)右、市川さん(2期)

昼休みなどの休憩時間には、みんなでビートルズやグループサウンズの曲を弾いて歌っていました。
ベンチャーズ、ビートルズ、グループサウンズ、カレッジ・フォーク、様々なジャンルが入り乱れて、若者文化の大きなうねりが動き出していました。ギターが一気に普及し、聴くだけの受動的な音楽であった時代から、自分で作ったり演奏したりする能動的な音楽の裾野が広がっていく時代への移行期にあたります。